more than a SCORE

1996年から競馬を開始。20年続けてなお楽しんでいくための備忘録を兼ねた日記。

どうするキタサンブラック

ウマ娘大河ドラマのアウトラインは似ているように見えますね、というお話。

 

大河ドラマの史実と解釈(脚色)

昨年末で「どうする家康」が終わりまして、今年からは「光る君へ」が始まっています。「どうする…」はきっかけがあって観始めてからかかさずラストまで堪能しました。

後半はほとんどパターン化していましたが、本編の放送があった翌日には「脚色が過ぎる」「史実ではこう」という主旨の訂正?記事を目にすることができました。実際、ばっさり
描かないことでかなり大胆な解釈でストーリーを組み立てた回もあったようです。

 

史実をもとにしたフィクションなのであまりうるさく言わなくても…、と思いつつ、そうした記事をしたためる側にはフィクションと史実を分けずに大河だけで理解して史実を歪曲してしまうことへの懸念があったようですね。それはそれで真摯な姿勢というべきなのでしょう。

 

ウマ娘の史実と解釈(脚色)

※これからウマ娘Season 3を観る方にはちょっとネタバレになりますのでご了承いただきつつ読み進めてください

 

同じく昨年末にウマ娘のSeason 3が放送終了しました。キタサンブラックのラストラン有馬記念で終わりましたので、まさに大団円という幕引きになりました。個人的にはその翌年のサトノダイヤモンドの苦悩を観なくて済んだという思いもありますね。

こちらも史実をもとにしたフィクション。ただしこちらは史実自体がなかなかドラマチックですから、史実に寄せるだけでも十分熱いシナリオになりそうです。

 

大河ドラマよろしく、少し議論がでていたのがキタサンブラックのピークアウトの話。宝塚記念の謎の惨敗の理由、そして最後の秋3戦の動機付けをアスリートとしてのピークアウトに寄せたストーリーテリングになっていました。…ここに史実に忠実なファンが反応した、といった表現をすると嫌味に聞こえてしまいますかね。

個人的な見解ですが、宝塚記念は馬場コンディションや他馬(主にサトノクラウン)のマークといった苦しい展開から馬が直線半ばから無理をしなかったことが大敗の原因と思っています。基本は頑張って全力をだすけどホントにまずいときはその少し手前で止める、という人間っぽい匙加減は競走馬としてはかなり珍しいモチベーションだと思いますけどね。

ピークアウトについてもギリギリまで頑張るというモチベーションが消えているという意味ではピークアウトという表現も当たっていると感じます。ただオグリキャップの最後の秋のような、フィジカルがガタッと来るピークアウトではなかったという見解ですね。

 

ウマ娘はここをピークアウトと断じてそこに向かって最後にモチベーションを燃やすキタちゃんを描くシナリオを組み立てました。1クールのアニメのクライマックス演出としてはベタで秀逸だなぁと素直にいい印象を覚えた次第ですね。最終回のキタサン祭り、楽しみに待てますものね。

 

史実と解釈のギャップが生じる好例は水戸黄門

ちょうど昨年暮れに放送したNHKの「歴史探偵」という番組で、水戸黄門が取り上げられていました。

曰く、徳川光圀は全国をまわっていないし、助さん格さんもでてこない、と。どうやら明治中期の講談本で描かれる姿が我々のよく知るテレビドラマでみる黄門様の原型になったとのことです。

徳川光圀が隠居後に領民との信頼醸成と産業振興の観点で水戸の領内をよく回っていたという研究結果はあるようで、一方で助さんのモデルの方が歴史書大日本史)編纂のため史料収集に全国を回っていたという史実もあり、このあたりが明治に脚色されて講談本になったようです(歴史探偵に寄せておりますので、さらに詳述すべき内容があるかもしれませんが)。

 

講談本を調べてみると、口演の速記を発行したものであったり、少年向けに発行されたものを指すようですね。明治中期に流行ったとのこと、詳細は以下で確認しました。

www2.ntj.jac.go.jp

 

「語り直し」にはいったん事実とのギャップが生じる

史実の研究と異なり、多くのひとにたくさん語ってもらう、いったん語ってもらう、面白く語ってもらうためにはこうした「いま」にフィットする脚色がかかせないのではないかと思っています。

でもそうして脚色されて興味深く語りなおされた話は、次の世代にバトンが渡るんですよね。アップデートという表現でもいいかもしれません。

 

アップデートは必ずしも良化、改善を意味しないと思っています。ただ、その時期に適したものに形を変えることは確かでしょう。

脚色した瞬間に事実との乖離が起こる一方、その引き換えとして多くのひとが端的に語りなおし、次の時代にも語り続けられるようになるという効果がとても重要と考えます。語られないものは消えゆくだけでしょうからね。

 

自分はリアルな競馬でファンを始めていますが、ダビスタで知識を深めていまして当時のブームを享受しております。まさにゲームを通じた競馬の語り直しだったわけですが、ゲームだろ?(=実際の競馬とは違うだろ?)という視点は少なくなく存在していましたね。でも今に至ってはダビスタきっかけで競馬を生業とするひとが珍しくないわけですからね。

 

最後に

「どうする家康」の視聴率は歴代ワースト2位という結果でしたが、高齢層で低く20代と40代では同時間帯で善戦していたという分析記事も目にしています。

news.yahoo.co.jp

 

ただ、ここで松潤の家康を面白く観た層が、じきに史実との照らし合わせや知識の補正を行うといった語り直しをすすめていくはずなんですよね。

競馬を長く楽しむためには多くのひとに語ってほしい、それがファンの裾野を広げて、社会への許容をつくりだすわけです。ファンでない方が競馬が社会にあってもいいと思ってくれることもまた競馬の継続に絶対にかかせない要素でしょう。

 

シンガポールにつづきマカオでも競馬場がなくなってしまうニュースを目にしています。こうしてみると日本競馬のバジェットの大きさと文化の厚みは世界的には稀有なんですよね。

 

ウマ娘に全く違和感を覚えていないというわけではないんですよね。でも大きく許容して楽しむことは全然できていまして。長く競馬を楽しむうえで、その土台として、さまざまに競馬を語れる機会が増えている現状は歓迎しているところです。