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1996年から競馬を開始。20年続けてなお楽しんでいくための備忘録を兼ねた日記。

追悼クロフネ

23歳、老衰とのことです。あまり湿っぽくなっていないのは、寿命という納得があるからでしょう。

2019年に種付けを休んで、そのまま種牡馬引退、社台スタリオンステーションで余生を送っていました。直近の2カ月は体調が優れなかったようですが、年齢的にも天寿を全うした、という表現が妥当と受け取っています。

JRAの発表はこちら。

www.jra.go.jp

戦歴はJBIS-Searchにて。

www.jbis.or.jp

この週末は各種ニュースを確認しつつYouTubeとRacing Viewerで当時のレース映像を振り返っていました。Racing Viewerでは、デビュー戦から全レースの映像が観られます。以前の特集「未来に語り継ぎたい名馬」ですね。

新馬戦で好位のイン追走で前が詰まって取りこぼす形だったのは意外な発見だったり、そうでした2歳時は松永幹夫が主戦でした、などなど、いろいろ記憶との整合を確認しながらだといつまでも楽しめますね。現地観戦は2回、ダービーとジャパンカップダート。あのジャパンカップダートを目撃できたのは財産ですね。ええ、歴史の証人です。

真っ先に思い返したのはNHKマイルカップ

いや、もちろん秋のダート2戦は圧倒的なんです。

鞍上武豊、青のメンコ、アメリカ競馬ばりのロングスパート(武豊アメリカ遠征の成果を表現したものと思っています)は受けた衝撃とともに思い出すわけです。

ただ、訃報を受けてふっと思い返したのはNHKマイルカップだったんですよね。なんででしょう。

当時はアグネスタキオン引退を受けてダービーの有力候補足り得るのか、そして乗り替わった武豊がどんな騎乗を見せるのか、といったレース前の期待感が強かったんですよね。そうですね、メンコのないクロフネのイメージもなかなか強く残っています。

 

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2001年NHKマイルカップ、大きなストライドで追い込むクロフネ

2着グラスエイコウオーの単騎逃げ、普通はペースが嵌って押し切る流れでしたが、これを差し切る長大なストライド。同じフレンチデピュティ産駒なのですけどね。

最近ではサウンドトゥルーが分かりやすい例えでしょうか、筋肉質で硬めでパワフルなピッチ寄りの走法というのが平均的なフレンチデピュティのイメージ。この柔らかく大きなストライドはそれとは対照的。大柄の馬格で脚が長い分、余計に柔らかさは際立って見えていました。

おそらくですが、武豊テン乗りで探りながらの騎乗だったでしょう。レース後のインタビューはYouTubeで探せますが「ヒヤッとした」とのこと。結果的に差せてよかったというニュアンスがくみ取れます。次走の距離延長を見据えて、そしてストライドを活かすイメージでの待機先であったのでしょうね。

当時は確か、アーリントンカップで勝利に導いたダンツフレームとどちらに乗るのか、という状況だったと記憶しています。この結果、クロフネ武豊ダンツフレームアグネスタキオン引退で空くことになった河内というコンビに落ち着きました。あー、河内はアグネスゴールドも故障で乗れなかったんですよね。皐月賞前はどちらのアグネスに乗るのか、というのが話題の中心でした。いろいろ思い出しますね。

ダービーの取捨と直線の凝視と

ダービーはパドックを見て、戦歴と走り方と、最後は好みで(笑)ジャングルポケット本命でした。まだまだ分析らしい分析をしておらずミーハー度も高い頃ですが、軽いグリップでないとあの柔らかいストライドは活かせないと思い、重馬場ではマイナスと予想していました。府中はトニービン、という格言が幅を利かせていた時期でもありましたが、クロフネに向かない、という見解をベースにで予想したのが当たった格好です。

でもなー、直線、ジャングルポケットに交わされた後、クロフネがその姿を目で追っているように見えるんですよね。なにかこう、苦手な馬場で思うようなストライドで走れないその横からライバルが抜いていく、その瞬間はどんな気持ちだっただろうと。…ええ、ファン目線のファンタジーですのでそっとしておいてくださいませ。

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2001年日本ダービージャングルポケットに交わされるクロフネ

変則2冠の端緒

管理していた松田国英師は1600mと2400mのG1を両方制することに価値を置いています。いまでも変わっていないようですね。3歳春に東京の1600mと2400mのG1を、と限定した表現にすべきでしょうか。俗にマツクニローテと呼ばれる、NHKマイルカップ日本ダービーというローテーション。これはクロフネで大きくフィーチャーされた認識です。

クロフネが走ったのはダービーへのマル外開放元年と呼ばれた2001年。皐月賞が開放されたのはその翌年のはずですので、マル外であるクロフネにとって皐月賞を経由しないこのローテーションは妥当な選択肢であったように思います。それでも、毎日杯から、というのはいまですと押せ押せな感じがしますけどね。

その後、タニノギムレットキングカメハメハが同様のローテーションで一定の結果をだしたことで認識が定着したと思っています。故障とセットで語られてしまうのは残念ですが、レース間隔に由来するものでしょう。個人的にはダノンシャンティが印象深いです。後年に同厩舎ではブラックシェルが、そして同期のディープスカイが辿るローテーションでもありますね。

ダート2戦は圧倒的

語り草となっているダート2戦、そのうちジャパンカップダートが現地観戦でした。当時のスタンドの高揚感は、そうですね、最近ですと世界レコードのアーモンドアイくらい、と例えてちょうどよいかな。もちろん個人の見解でございます。

遠征してくる外国馬がまだまだ大きく見えていた時代ですから、リドパレスを早々に交わしていく様はまた違った高揚感で例えるべきかもしれませんね。

改修前の記録になりますのでその名は残っていないわけですが、どちらもいまだ破られていないレコード。特に武蔵野Sは、NHKマイルの走破タイムととコンマ3秒しか違いませんからね。このあたりは言葉を尽くすより映像をご覧いただくのがよいと思います。

Number Webには島田さんの追悼記事がありました。現役当時の評価、特にダート路線に切り替える経緯をおさらいするにはちょうどよい記事と思いますので、ご紹介。

number.bunshun.jp

ジャパンカップダート後の期待感

2001年のドバイワールドカップトゥザヴィクトリーが2着していました。ライブリマウントの第1回参戦から、ホクトベガキョウトシチーワールドクリークと挑戦を続けてのトゥザヴィクトリー。あと少し、というこの経緯があって、2001年秋のクロフネですから、期待感がググっと高まっていたのをよく覚えています。トゥザヴィクトリーと同じ勝負服ですしね。

そうでした、その前にフェブラリーSが大変なことになるぞという期待感も膨らんでいましたね。実際はアグネスデジタルトーシンブリザードのワンツーでしたが、サウスヴィグラスウイングアローイーグルカフェトゥザヴィクトリー…。このメンバーにクロフネが加わるわけですからね。

www.jbis.or.jp

期待が膨らみ切っていた分、引退の一報はショックでした。2002年のドバイワールドカップ、ストリートクライとの攻防かー、観たかったですね。

産駒で印象深いのはフラムドパシオンポルトフィーノ

産駒の重賞勝ち一覧がまとまっていたのはJRA-VANのフリカエリ記事。こちらはさすがデータ重視ですね。

jra-van.jp

思っていた以上に牝駒に良績が偏っていました。牡馬のG1馬はフサイチリシャールクラリティスカイの2頭。現在、重賞ウィナーで種牡馬を継続しているのはテイエムジンソクだけ、でしょうか。父系はなかなか厳しそうですが、その血は母系に残っていくのでしょうね。

クロフネ産駒で印象深いのは、重賞勝ちのないフラムドパシオンポルトフィーノ。どちらも大きな可能性を見せながら大成できなかった2頭です。

フラムドパシオンヒヤシンスSUAEダービーを見ていただきたいと思います。ユニコーンSを楽しみにしていた中での屈腱炎発症。その後の治療については有吉さんのコラムが詳しいです。

enjoy.jbis.or.jp

ラストランとなった師走Sは現地観戦していました。3歳当時とは異なる、どこまで頑張れるかという期待感で馬券を買い、ライトユーザーな同僚といっしょでしたので故障のショックをあまり伝えないように振舞っていたと記憶しています。

一方のポルトフィーノエリザベス女王杯カラ馬1着で記憶している方が多いかもしれません。ここは本命にしていましたし、レース前日に出走を取消した桜花賞ではリトルアマポーラと本命を迷っていたのを覚えています。

馬体のスケール感がね、あのまま心身ともに完成していたらなぁと思わせてくれました。当時を知らない方は、アエロリットのイメージを重ねていただければ概ね外していないかなと思います。当時のブログを探してみましたが、NHKマイルカップで観たいと書いていますね。なるほどなぁと思い返しております。

2頭の名前が並んだ時点で、あーねとなった方はさすがです。フラムドパシオンは母カーリーパッションポルトフィーノは母エアグルーヴ。2頭の母は全姉妹ですので、血統構成は全く同じ。そしてどちらも角居厩舎。好みというか癖というか、しっかり出ていますね。

最後に

この調子でG1勝ちの産駒を振り返っていくと途方もなくなりますね。このあたりで区切ろうと思います。

フェブラリーSがG1に昇格したのが1997年(ホクトベガがG2時代の最後の勝ち馬)。ジャパンカップダートは2000年に創設。ちょうど3歳ダート三冠を整備しようと試みていた時期でもあります。ちょうどダート重賞のてこ入れが進んだ時期に登場したのがクロフネでした。

ハードの充実を踏み台としてダート競馬の地位向上に大きく寄与した1頭、といった評価で歴史の1ページとして語られることになるのでしょう。

でも、一番残っていってほしいのはあの武蔵野Sジャパンカップダートを目撃した瞬間のインパクトなんですけどね。リアルタイムでの衝撃はそれはもう、凄い、のひと言でしたから。