ここ2週ほど、手綱の長さにフォーカスした記事を立て続けに目にしています。
もちろん技術論を流麗につまびくことは叶いませんので、外野から思うことをつらつらと書こうと思います。確度はともかく、毎週観察しているとどうしてもいろいろ感じるところが増えてきますからね。
モレイラのフォーム
WASJ前にモレイラに関する記事がありまして、福永がモレイラの特徴について触れていました。曰く、「手綱を短く持って脇を使って抑える技術がある」とのこと。脇を使う、という表現がちょっと伝わりにくいでしょうか。個人的には、肘を下げて脇を締めて上腕三頭筋と背筋で物理的にホールドする、という説明になりますがマニアックすぎますかね。
モレイラについては佐藤哲三もnetkeibaのコラムで解説を加えていまして、肩の付け根から腕をしっかり動かして使えている、とのこと。有料記事のようなので詳述は避けましょうか。
福永の短い手綱
別の記事では短い手綱のメリットについて福永が自身の分析を。どちらかというと長手綱のデメリットと比べている感じですが、箇条書きにするとこんなところでしょうか。
- 短いと拳をちょっと内側に向けるだけで締まる(引っ張りやすい)
- 前に重心を置いて乗りやすい
- 長手綱で馬を抑える場合、重心を後ろにかけないといけない
- 長手綱は首が使いやすくてスタートの出が速くなる
- 一方で長さの分横のブレを修正しにくい
- かかっても手綱を短くして抱えて乗れば脚はたまる
- ハミを外して馬をリラックスさせないと脚がたまらないっていう考えが日本ではまだ根強い
後ろ重心になりやすいという指摘は、ブレーキ要因になってしまうということでしょうね。短く持って馬を抱える技術が大事、という近々の乗り方に通じる価値観、興味深く読んだ次第です。エピファネイアから考えると納得感がありますね。記事はこちら。
武豊の長手綱
一方で「僕って長いでしょ?」武豊の長手綱について。
「日本の馬って勝手に進んでいくことが多いので、手綱が長い方がいい面もある」というコメントには文化の異なる競馬を体感しているジョッキーならではの視点が含まれていますね。
「あまりハミを当てたくない」というのは強い刺激への慣れに対する予防、という意図もあるように思いました。馬に限らずひとでも、弱→強への刺激の変化には反応しやすいわけですが、どんどん鈍感になってしまいますよね。一度鈍感になってしまうと感度を取り戻すには相応の時間がかかる、ないしもう取り戻せなくなる、という可能性がありうるなと。
最近ではキタサンブラックとのコンタクトが分かりやすいかもしれませんが、個人的にはスペシャルウィークの白い長手綱がとても印象的ですね。武豊自身も手綱に遊びがあって道中追走できているのが好調のサインと受け取っていたようです(武豊TVの追悼企画で話していたと記憶しています)。
ひとそれぞれという結論
この流れで紹介すると、福永と武豊で対立を煽っているように読めますでしょうかw いえいえ、見解と研鑽の違いは感情的な対立と同列には語れないでしょう。
個人的には2人の身長の差が表れているように感じています。170cmを超える武豊がそのリーチを活かすには単純に短く詰めるだけではしっくりこなかったのかな、と。仮に前々に鞍をセッティングした場合、予め体が詰まった状態になっちゃいますから追った際に力が伝わりにくい状態になる、というような推察は可能かなと思っています。
理想の手綱の長さというのはジョッキーの体型、筋力、動体視力、バランス感覚、諸処の癖、乗り馬とのマッチングなどに影響を受けて変わるのでしょう。ジョッキーによってベストな乗り方は異なる、という結論はちょっと物足りないくらいシンプルな表現ですが、そのディテールを語るにはかなりの分析力が必要になりそうです。
運動力学的な視点だけでジョッキーの技術を語ることは難しいのでしょうが、効率的な力の加わり方がどのようなものか、それこそスポーツ科学という括りでジョッキーのアクションの解説などあれば、ぜひ目にしたいものです。
最後に
昭和の時分の長手綱には、乗り役ならではの美意識も反映していたと思っています。たわんだ手綱で強いコンタクトをせずに、ニュートラルなスピードでレースの流れに乗る。その力任せでないライディングに、馬造りのひとつの理想があったのでは、と思っています。柔よく剛を制す、という在り様に価値をおく国民性ですしね。
そこまで思い至って、先に挙げたジョッキーはいずれも素晴らしい研鑽を続けているのだな、と改めて思ったところです。年齢を重ねながら自身の獲得してきた美意識や方法論をアップデートし続けるのはとても難しいことでしょうから。
これを書いている自分が40を超えてリアルに感じていることともリンクしてきました。福永とは同い年ですしね。はい、頑張って「手綱の長さ」を見直してまいりますw