先週の日曜にパークウインズ府中へ。記帳を済ませてきました。
90年代後半の名馬がまた1頭逝ってしまった、という感慨をもちながら献花台に向かっておりました。独特な寂しさで名馬の死を迎えている感覚になっていたのは、…多分にこちらが年を取ったせいでしょうね、いまいまの競馬だって全然楽しんでいるんですけどね。
まずは戦歴を
JBIS-Searchにて。東京と京都に戦歴も良績も集中しているのがわかります。妥当なローテーションである一方、当時の藤沢厩舎の傾向でもあったように記憶していますがこれは別の機会に確認してみましょうか。
追悼記事に触れる
Number Webにあがっていた記事。タイキシャトルの現役時代の概略を読みたい方にはお勧めと思いました。
一方、デイリースポーツの記事では横山典弘のエピソードを紹介。「グラフで持久力、切れ味、折り合い、性格と項目があるとしたら、総合点がきれいなマル。小さいマルじゃなくて、大きなマルなんだ」。乗り替わり2戦でしたが、特にマイルチャンピオンシップではそういう認識で臨んでいたことが窺える興味深い内容でした。
4歳(いまの3歳)で有馬記念について検討していたことも語られていますね。これははじめて知りました。シルクジャスティスの追い込みが届いた有馬記念、タイキシャトルがでていたら…。いやーパッとは想像しにくいですね。
当時の評価を自分なりに思い出す
今から振り返れば史上に残るチャンピオンマイラーという評価であるわけですが、旧4歳の秋口は「短距離戦線の有力馬の1頭」というメディアの取り扱いだったように記憶しています。府中に代替開催となったユニコーンSを勝った後、オープンで取りこぼした実績のある芝路線へ矛先を向けた馬ですからね。
スワンS、マイルチャンピオンシップと2番人気ではありますが単勝人気は少し期待値が込み込みだったように記憶しています(スピードワールドも同様でしたね)。
マイルチャンピオンシップ、スプリンターズSの連覇は史上初、その連勝とその勝ち方で短距離戦線の中心として評価されて翌1998年を迎えたという認識。その1998年は年間を通してチャンピオンの扱いでした。そのあたりは単勝オッズに表れていますね。
やっぱり安田記念
Most Impressive Raceといった言い方はあまりしないようですね、単純にベストレースというべきでしょうか。タイキシャトルのレースから印象的なひとつを選ぶなら、やっぱりあの不良馬場で1頭だけ末脚を伸ばし続けた安田記念になります。
不良馬場の程度は、同じ安田記念だとジャスタウェイ、キタサンブラックの天皇賞秋あたりと近しいイメージで捉えていただければ程よいかと。先行馬は粘り切れず差し馬は伸びない、直線は過酷なサバイバルになった認識です。
マイルは長いという一方で不良馬場で切れる脚が使えない、という状況から府中の4コーナーで先団まで押し上げるというほぼ奇策に打って出るシーキングザパール武豊の姿もありました。タイキシャトルに抗するにはこれしかない、という戦略に見えますね。
内で粘るヒロデクロスやロイヤルスズカを何とか交わしにかかる香港馬オリエンタルエクスプレス。その外から1頭だけ推進力の異なるタイキシャトルが一気に交わしていきます。
前走京王杯スプリングカップはレコード。ダートもOK、スピード馬場も不良馬場もOK、ハイペースもスローペースもOK。関係者はすでに海外へ目を向けていましたが、このパフォーマンスで国内で向かうべきレースはないというムードが醸成されたのを覚えています。当時SNSがあったら盛り上がり方もずいぶん違っていたでしょうね。
そうでした、ロイヤルスズカは買っていたけどオリエンタルエクスプレスは抜けていました。これもまたなつかしいですね。
ジャック・ル・マロワ賞制覇の記憶
当初はサセックスSという話があった経緯はDVDに収録されていました。当時アイルランドで大樹の馬の育成を担っていたジョン・マルドゥーン氏が、より日本の競馬に近い条件であるジャック・ル・マロワ賞を勧めたとコメントしています。
当時、サセックスSもジャック・ル・マロワ賞も日本の競馬ファンには浸透していなかったと思われます。…いまも同じかもですね。でもネットで容易に調べられる環境が当時はありませんでしたからね。ジャック・ル・マロワ賞の当時の位置づけなどは正直よくわからない状態でした。歴史あるマイルG1、という程度の認識でした。
パドック入場時だったと思いますがシャトルにはいななく癖があって、今日はいなないたのかとジョッキーがレース前に確認したというエピソードも思い出しました。日本と同じ気持ちで臨んでいるか、というバロメーターですね。
日本のレースと同様に前受けして押し切る姿。岡部ジョッキーの涙。ぜひネットワーク経由かつ公式の映像で確認したいものです。これもあってDVDを引っ張り出した次第ですので。
そうそう、終始タイキシャトルをマークしていた3着ケープクロスは後々シーザスターズを輩出。いまならバーイードの祖父と言った方が通りがよいのでしょう。血統の歴史は堆積して、その意味に厚みを増していきますね。
ブリーダーズカップマイルへの遠征は早々に断念
ジャック・ル・マロワ賞制覇後にブリーダーズカップというプランもあったようです。検疫込みのレース間隔と移動が厳しいと判断、遠征は断念となりました。出走していればチャーチルダウンズ開催のブリーダーズカップマイル、コーナー4つの小回り平坦コース、勝ち馬はダホスでした。
ジャック・ル・マロワ賞から転戦した2着アマングメン3着ケープクロスはそれぞれ11着と9着と敗退しています。戦歴のほとんどが東京と京都に集中、外回りコースのない旧阪神ではテンザンストーム相手に2着に取りこぼしているタイキシャトルがここにいたら、どうなっていたでしょうね。以下、映像です。
京都の4コーナーと唸りながら先行する姿
印象的なレースは安田記念ですが、印象的なワンカットを選ぶなら京都の4コーナーをインから3、4頭分外を回って唸りながら直線に向く姿。特に馬体が完成期にはいったであろう98年のマイルチャンピオンシップですと、鞍下のパワーをまだ100%前進に使わせないようホールドしつつ、力を逃がす動きを作り出した結果、岡部ジョッキーの首が上下しているのが確認できます。
馬からすればゴーサイン待ちですよね。この解放直前のみなぎるパワー、タイキシャトルならではと思わせてくれます。
語りようがなかったタイキシャトル×サイレンススズカ
同期なんですよね、この2頭。充実期や路線の違いから対戦することがありませんでしたし、そもそも対戦が期待されることもなかった認識です。実現するとしたら天皇賞秋だったでしょうが、当時「マルガイ」に出走資格はなく。クロフネ除外が話題になるのは2001年ですのでね。
藤沢師は天皇賞秋に出したかったとコメントしていますので、出走資格さえあれば実現していたかもしれません。そしてその天皇賞はサイレンススズカが完走できなかったレース。たらればばかりになりますが、98年にいまの番組編成であれば、夏の間に期待が大きく膨らんでいたことでしょう。どちらが強かったかは語らないでおきましょうね。
種牡馬タイキシャトル
後継種牡馬はメイショウボーラー、レッドスパーダというところ。父系が残っていくには少し厳しい情勢です。一方でブルードメアサイアーとしての活躍の方が目立ってみえていますね。その実績は以下にて。
ワンアンドオンリーの血統表をみて距離延長…?と端的に疑っていたのもいい思い出。クリスタルブラックの京成杯、単勝的中もよく覚えています。こうみるとだいぶ様々なタイプがでていますね。現役馬だとヴェローチェオロ、ダイヤモンドSでは本命にして痛い目をみていましたが、適性の見極めも含めて今後に期待しています。
最後に
JRAがメモリアル的な動画をアップしていました。観たタイミングでは再生回数が6000回いっていませんでしたので、アップして間もないのかな。
一報が伝わった直後はたくさんの反応がTLに飛び交っていたわけですが、死を悼むならこのくらい時間をかけたいとも思っていまして。それにしては目配せできる情報が多過ぎますからね、馬を知るほどに1頭1頭への思いにかける時間はどうしても限られてしまいます。
…やっぱり天寿を全うしたことが大きいかな。悲しいというよりは寂しいけど一区切りという表現が近しい感覚でおります。おつかれさまでした、ゆっくり休んでください。