それでは、主なステークホルダーごとに国際化の目的やそのメリットが微妙に異なっているように思う、という点から。
ステークホルダーごとに異なるであろう「国際化」
前回の投稿で取り上げたウマ科学会のシンポジウム、それぞれベクトルの異なる国際化の取組みについてプレゼンをしたあとで、登壇者全員でパネルディスカッションという進行だったのですが、これがなかなかに盛り上がりませんでした。
それぞれの端的な意見表明で終わってしまった格好だったのですが、この異なる「国際化」という視点を持ち込むと、議論の前提が整っていないなかで語らなければならないパネリストの事情が理解でき、そりゃあ議論しにくいよねと察することはできました。せっかくの機会だったのでもったいなかったですけどね。
ただ、国際化という言葉が一義的にきちんと定義されていればよかったか、というとそれもまた違うと思っていまして。
競馬にかかわる人を様々に巻き込みながら多元的な意味を抱える入れ物として機能し、それがいまの日本競馬の輪郭を象るに至っている、と理解するほうが賢明ではないかと整理しているところです。
大きく目指すものとしての「世界」という語り
また、個人的には、オリンピックとそのメダルを取り巻く価値に似ているかな、とも。日本一の先に目指すべき高い壁として語られる「世界」ですね。エルコンドルパサー以降の「凱旋門賞」もそのために象徴的に使われてきた概念だと思っています。
…あんまりこういう冷めた表現はしないほうがよいのかしら。それでもアーモンドアイには期待しているんですけどね。
取り直して、その大きな言葉の傘の下で、ステークホルダーごとにどんな視点が優位であるのか、あくまで私見ですが区分けしてみようと思います。
生産者にとっての国際化=ブランディングをともなう販売促進施策
昨年のウマ科学会シンポジウムでJBBAの方がプレゼンしていた日本競馬の国外PRは、日本産馬の国外での評価向上を通じて、日本生産馬を国外から買いに来てもらうことを企図したものと理解しています(JBBAは生産者のサポートが主目的の団体ですので)。例えば国内のセリのプレイヤーが増えることは、セリの活発化、売却率や売価の上昇を期待させます。販促につなげたいPRといえるでしょう。
そして販促に留まらず、日本競馬のブランドイメージの認知向上はインバウンド的な需要の喚起にもなりそうです。日本の競馬を見に来たいという需要が増えることは、国際的な取引の裾野づくりでもあり得ると思います。…これはまわりまわって生産者に還流する話かな。ちょっと間接的な効果かもしれませんね。
いちごで例えてしまいますが、日本産のいちごは香港で人気があり、「あまおう」は日本国内より高値で買われているようです。以下九州のデータを見つけたのですが、生産量は漸減している一方で「あまおう」など一部ブランドが国外で評価を得ている状況が読み取れます。
http://www.kyushu.meti.go.jp/report/180531/180531_report.pdf
競走馬も農産品と考えた場合、昨今の「ディープインパクト」というブランドがさまざまに「輸出」され始めている事情と符合する部分を感じたんですよね。その国にない付加価値をもつ日本ブランドが請われやすい、という符合ですね。
いまいまは欧州豪州が中心ですが、自地域で煮詰まり始める主流血統に対して、付加価値を高く見積もることができ、かつカンフル剤になりうるサンデーサイレンス→ディープインパクトというブランド。請われる背景が整い、いわゆる買い時になってきたと理解することができそうです。
…門外漢がこうした経済事情を引き合いにだすといろいろボロがでそうでこわいですねw
競馬主催者にとっての国際化=国際基準への適合による地位向上とレースの価値向上
1992年からから本格化したJRAの国際化計画、その要の部分といえるでしょうか。2007年のPart1国入りによって、中央競馬のグレードレースは国際基準への適合を果たしました。
自分が競馬を始めた1996年は、その後20年につながる大きな変更があった年と認識しています。秋華賞とNHKマイルCのG1新設、高松宮記念の距離短縮とG1格上げ、などなど。自国でグレードを決めていたため、興行面を重視した大胆な変更が可能だった時期ですね。
2007年のPart1国入りは、こうした柔軟かつ独自の運用にある意味制限をして、国際レーティングに依拠して他国とのものさしをそろえることになります。レースや競走馬の国際的な評価がわかりやすくなる条件を整えた、という理解でよいと思います。…欧州偏重とか、そのあたりの議論は割愛しますね。
共通のものさしを当てた前提での価値向上=価格向上、と考えるなら、ここは生産者とメリットがつながる一面と思います。…が、どうやら一枚岩ではなかった様子が過去の記事から窺えますけどね。必ずしもPart1になれば馬が売れるわけではない?という2004年の記事を見つけています。
JRAのメンツ、と言われてしまえばそうですが、主催団体の地位が上がらないということがどれだけの価値(=利益)の棄損を招くかは、個人的には察するところでもあります。およそ不適当な見積もりとか、厳しいご時勢ですものね。。。
上記の記事内でも指摘されていますが、レースの価値向上=商品価値アップという議論はとても正論。魅力的なレースであるためのベース作りとして、国際的な評価基準を受け入れるという判断は賢明な判断であるように思います。
一方で、これは現在議論を続けているところですが、検疫にかかる国際的なルール検討(いわゆるBubble to Bubble)は国際標準への適合の取組み、その一例といえそうです。2020年オリンピックでの乗馬受け入れが必要なだけに、日本がルール策定に積極的にコミットすることもあり得るでしょうね。
オーナーにとっての国際化=短期的な費用対効果or長期的な所有馬の価値向上
最も名より実にフォーカスしなければならないのはこの立場でしょうか。中長期的な立場に立って国際的な評価を視野に入れられるのは、種牡馬ビジネスが可能な大牧場に限られるでしょうし、その生産馬を扱っている一部のクラブ法人や特定のセリに資金を費やせる個人馬主に限られているのが実情でしょう。…だいぶ固有名詞を避けた表現にしましたねw
それでも、例えばエピカリスのベルモントS遠征は、結果論とはいえ、賞金がゼロの一方でまるまる遠征費用の支払いが生じたわけで。このケースではUAEダービーの賞金があった分何とか…という話も聞こえていますが、一般的なサラリーマンにとって海外遠征費用はかなり厳しい負担となるのが現実でしょう。
クラブ法人も対策は講じているようで、先日のアエロリット、ペガサスワールドカップターフへの遠征では、賞金減額のかわりに主催者から輸送費負担を引き出したとのこと。出走馬確保という主催者の台所事情もあったのでしょうが、こうした堅実なマネジメントが国外へのレース参加には引き続き必要と思われます。…そうすると、ノウハウをもっている一部の陣営に期待する図式がより色濃くなりそうです。
確率が低くても強い馬を所有したら海外のビッグレースへ、というファンに近い夢はもちつつ、大半のオーナーにとっては国内での費用対効果が優先事項であるでしょう。あ、そうしたオーナーシップのよしあしを云々するのはまた別の話ということで。
ファンにとっての国際化=理解しやすく期待しやすいストーリー
ここが一番、他のステークホルダーとの乖離が大きいかもしれませんね。一口馬主をされている方以外、競走馬の価格やその相場については全くの外野、取引も交渉も気に留める必要に迫られることはありません。また、国際的な立ち位置の評価に関心をもたなくても、目の前のレースは楽しめますものね。
…かくいう自分もその立場ですが、なんでこんなに長々と議論しているかは置いておきましょうかw
主に国内で敵なしとみなされたチャンピオンは「海外」へ目を向けるという、定型化された文脈が応援する側にはあります。
…この表現に違和感をもたなかった方は、十分その文化を享受していますよね。はい、いじわるな文章ですみません。
そして先に書いた通り、その挑むべき「海外」の端的な象徴として、凱旋門賞がその役回りを担ってきたと理解をしていますし、近年の挑戦が興奮をもたらしてきたこともまた、この文脈をファンの中に強化してきたでしょう。ファンの側の語り口として機能するストーリーは、集客の重要なポイントになり得ます。
前回の投稿で指摘した通り、国内選考を経てオリンピックのメダルに到達するストーリーに重ねやすいことは、競馬をよく知らない方に踏み込んできてもらうにはハードルが低いでしょうね。ライトユーザーにも理解しやすい枠組みが強化されてきた、といえそうです。
一部のファンにとっての国際化=楽しさの深掘りと相対化
一方で、海外競馬に自分からアクセスしているファンは多様な競馬があることにとっくに気付いています。
自分もTwitterで情報収集していますが、一部のファンの方のアンテナは相当に多岐で鋭敏。ライトユーザー向けのステレオタイプな語り口とは一線を画す、日本競馬を相対化していく深掘りがそこには確認できます。詳しく書くと本気で死ぬので割愛しますが。
例えば、南米のG1の速報とかよくフォローしているなーと感心することも。あ、呆れるニュアンスでなくその関心の強さにシンプルに感嘆している感じです。
ライトユーザーとこうした方々をファンとしてひとくくりに表現するのはさすがに見当違いであるでしょう。
海外レースの馬券が一部買えるようになりましたが、あくまで専用口座をもっているファンに限られます。大多数はこうしたコアな情報に自分からアクセスしないわけで、日本一→世界一という図式で日本の競走馬を応援する大きな流れはしばらく続くと捉えるのが賢明でしょうか。
立ち位置のギャップの先に見えるもの
主な4者(5者)の立ち位置を比較してみました。少しずつ重なりがありつつも相応のギャップがある、というのが妥当な理解であると思っているところです。あ、ギャップがあること自体は当然といっていいと思いますし、ギャップそのものは悪ではないと理解をしておりますよ。
自分が着目するポイントは、最大の資金の供給元であるファンが、他のステークホルダーと異なるストーリーを見やすい状況下にあるということ。この状況はなかなか恣意的に変えられるものではないでしょう。正しい議論はしたけれど煩雑だったりつまらなかったりして海外遠征への機運が盛り下がるとしたら(海外のレースの売上げが下がるなど)、まず興行としてはマイナスですしね。
なんといいますか、国際化したことでどんなわくわくするストーリーがあるの?という、その次を語ることの難しさに直面し始めたといっていいのかもしれません。個人的には、ソレミアに差されたオルフェーヴルの凱旋門賞を観た後の感覚を思い出しております。…もうけっこう経ってますけどね。
比較、整理された議論に出会う機会が少なかったという感想
書きながら思ったのが、こうした諸々の議論があまりトータルに整理されず、特にファン向けにはどうしても興奮する枠組み(=チャンピオンの海外遠征)を煽る方向に報道が整理されがちだったかな、ということ。こうやって書き散らしてみて、こうした分析を何より自分が読みたかったのだと気づいているところです。
…仮に整理されたとしても、関心持たれなさそうですねぇ。求められないから書かれることもなく、書かれないことで力のある書き手も減っているのかもしれません。ふむ。
次の投稿はちょっと視点を移して、国際化のディテールとして「国際交流」と「国際基準への適合の違い」について整理してみようと思います。…終わるのかな、これ。